史跡
平安時代の末期に砺波地方を支配した石黒太郎光弘が築城、以来およそ300年石黒の子孫は栄えた。
城域は広く、濠も東西27間、南北16間あり、城の周囲には城下町が形成されていた。
文明13年(1481)、瑞泉寺との争いに敗れ、城域は荒れ放題となっていた。明治2(1869)年に荒れた城の一角に郷学所を建て栖霞塾と称し、地方の学問の中心とした。
所在地:南砺市荒木4948
所有・管理者:南砺市
指定年月日:昭和34年11月5日
史跡
坂本から朴坂峠に向かう通称「殿様道」といわれる坂道に、摩耗して古めかしい敷石がある。この道は、福光町から二俣を経て金沢市に至る旧街道で「朴坂峠」と呼ばれ、和銅年間に北陸道の間道として開かれたものと伝えられている。
加賀藩の時代になって、この街道を「殿様道」として川合田村の織田与三左ェ門が頭取となって拡張した。敷石はその時に桑山石を使って敷き詰めたものである。
頂上の国見には、殿様の御小休場が建てられ、その礎石は今も残っている。
所在地:南砺市坂本
所有・管理者:南砺市
指定年月日:昭和35年3月2日
史跡
前医王山の東山麓、香城寺古宮から40メートル高の標高250メートルのところに惣
堂跡(屋敷)があり中世、太美郷の鎮守の社があったとされる。遺構としては方形石組、礎石建物跡をはじめ堀、土塁など数多くみられる墳墓群が発掘された。
おそらく、平安時代から南北朝時代まで医王山山岳信仰の重要な拠点として栄えた証とみることができる。出土品としては奈良時代後半の須恵器、平安時代の美
濃灰釉陶器や土師器、中世前期の珠洲焼、加賀焼と推定されるものなどがある。
所在地:南砺市香城寺
所有・管理者:個人所有ほか
指定年月日:平成3年10月1日