史跡
古来より、医王山に伝わる山岳宗教の一院として、中性後期の医王山山麓寺院様式の在り方を反映した寺跡であることがうかがわれる。
文明年間、時の住職寂浄が蓮如に帰依し、法名を道海と改め、真宗に改宗し栄えたが、その後、無住の寺となった。
往時を忍ぶ土塁跡・山門跡・須弥壇跡・籠堂跡などの礎石が残っている。
出土品としては、土師器皿・珠洲焼甕などの破片があるが、これらはおよそ700〜500年前のものと推定される。
所在地:南砺市才川七袋谷
所有・管理者:個人所有
指定年月日:平成7年2月1日
史跡
西勝寺集落の西方山麓に平坦な竹林がある。ここに室町時代(1393 〜1499)に栄えた京都五山の一つである臨済宗相国寺の末寺最勝寺があった。当時、越中の武将蜷川氏の菩提寺として崇敬されていた。
この寺の遺物と見られる大日如来像や、宝篋印塔は桑山末社である西勝寺の春日社、集落西方山地に安置されている。近くには鐘楼跡という地名もある。
また、足利義晴将軍の塔頭末寺の安堵状が安居寺に保存されている。この寺は善徳寺より入寺した時代もあった。
所在地:南砺市西勝寺
所有・管理者:川西地区
指定年月日:昭和37年9月21日
岩木集落の荊波神社は前宮と奥宮があって、その奥宮の後方に前方後円墳がある。古
来、砺波地方を支配した豪族利波臣志留志の塚と伝えられている。志留志は古文書によると奈良東大寺の盧舎那仏建立に際し、米3千碩(俵)を寄贈し外従5位
下に叙せられ、更に懇田100町歩を寄進し外従5位上となり伊賀守に任じられた。その頃の越中守は大伴家持であった。志留志は、伊賀守を終え故郷であるこ
の地に帰り死去したものと考えられる。
志留志塚より発掘された出土品は、古墳時代後期の陶器(すえのうつわ)、鉄の直刀、藤原時代後期の文様をもつ白銅鏡、経筒などでこれらは同神社に収蔵されている。
所在地:南砺市岩木(荊波神社後方)
所有・管理者:岩木区長
指定年月日:昭和34年11月5日