山田地区
南北朝時代後醍醐天皇の第八皇子宗良親王は、南朝方に協力するよう北陸方面を巡られたが、その巡行に親王の御子尹良も同行されていた。そして、この地で死去され葬られた塚という。なお、宗良親王の弟君に当たられる恒性皇子も高岡市二塚で死去され葬られている。
この大塚集落は、以前王塚村とされていたが、不敬に当たると大塚村に改めた経緯があるという。
所在地:南砺市大塚
所有・管理者:大塚地区
東太美地区
この地一帯は、立野ヶ原陸軍射撃演習場であった。
明治29年(1896
年)金沢市に第9師団が強化設置された。その演習場として明治31年以降数回にわたり180万坪(600ha)が買収された。第9師団には砲兵装備があっ
て、全国でも富士山麓に次ぐといわれる大規模演習場となった。富山、石川、福井の各県と岐阜の一部を微兵区とするこの師団は、各兵科に分かれ実践さながら
の実弾射撃が展開されて、その爆音は遠く井波、庄川町にこだました。
この監的壕は、砲弾の的中率、性能効果を監察するところであり、当初は土抗
であったものを昭和3年に近代的で強固な球状型コンクリート製に改修された。コンクリート工法は当時一般化してなく、貴重な資料とされていたが、日露戦争
で第9師団が苦戦した203高地や鶏冠山砲台などを参考にしたものと考えられる。思えばこの監的壕の標高が、203メートルに類似している。
壕の上に立つと、近くにはかつての戦闘訓練の山野も広大な耕地と変わり、畑地に植えられた特産富山干柿の果樹が戦後の年輪をきざみ、遠くに砺波平野が展望できる。
所在地:南砺市立野新
所有・管理者:東太美地区