東太美地区
平安時代(794〜1185年)に医王山を中心に天台宗や真言宗が栄え、とりわけ、この地方は真言宗寺院が多く住民のほとんどが信者であった。
ところが、文明3年から7年(1471〜1475年)にかけて真言宗本願寺八世蓮如上人が北陸を巡錫され、太美地方で真宗を布教されたところ、爆発的に信者が増え真宗に転宗していった。そして、真言宗で使われた経典や仏具などをまとめて埋めたという。
この塚は、高さ8メートル、周囲70余メートルに及ぶ。また、この近くには石斧や古い土器が出土し、原住民が居住したところとして意義深い塚である。
所在地:南砺市土生新
所有・管理者:土生新地区
東太美地区
織田信長の武将佐々成政は、天正年中(1573〜1591年)越中を平定したが、隣国加賀国を治める前田氏と折り合いが悪く、加賀との国境いに48ヶ所の城(砦)を造り防戦につとめた。その1つが土生の丸山城(砦)である。
前は小矢部川で小高い丘に城を構え、後ろは五箇山から飛騨に通じる要衝である。前方の「深谷」は霧がよくかかり、敵から城(砦)が発見されにくい。一説には、成政怨念の霧ともいう。
地元土生村の鎮守は、尾張国熱田神宮にならい不動明王、日本武尊を祀り「剣」を主神としている。
所在地:南砺市遊部
所有・管理者:土生地区
東太美地区
この地一帯は、立野ヶ原陸軍射撃演習場であった。
明治29年(1896
年)金沢市に第9師団が強化設置された。その演習場として明治31年以降数回にわたり180万坪(600ha)が買収された。第9師団には砲兵装備があっ
て、全国でも富士山麓に次ぐといわれる大規模演習場となった。富山、石川、福井の各県と岐阜の一部を微兵区とするこの師団は、各兵科に分かれ実践さながら
の実弾射撃が展開されて、その爆音は遠く井波、庄川町にこだました。
この監的壕は、砲弾の的中率、性能効果を監察するところであり、当初は土抗
であったものを昭和3年に近代的で強固な球状型コンクリート製に改修された。コンクリート工法は当時一般化してなく、貴重な資料とされていたが、日露戦争
で第9師団が苦戦した203高地や鶏冠山砲台などを参考にしたものと考えられる。思えばこの監的壕の標高が、203メートルに類似している。
壕の上に立つと、近くにはかつての戦闘訓練の山野も広大な耕地と変わり、畑地に植えられた特産富山干柿の果樹が戦後の年輪をきざみ、遠くに砺波平野が展望できる。
所在地:南砺市立野新
所有・管理者:東太美地区