福光地区
この石碑は、明治の後期に地方相撲で活躍した吉田紋兵衛氏の碑である。蔵原の農家に生まれ、若い頃より相撲を愛し、砺波地方角力の頭取であった。一つ松は四股名である。
明治後期の越中は力士王国とまでいわれ、横綱に昇進した梅ヶ谷藤吉郎(36年 20代)、太刀山(44年 23代)、関脇の玉椿、小結の緑島、前頭の黒瀬川、寒卵子、十両に太刀の首、敷島、山田川の9人を数え、江戸相撲は越中の力士で独占した観があったという。
越中の草相撲も、その影響を受けて隆盛を極め、一つ松紋兵衛も力士として、越中相撲協会の発展に貢献し、大正2年63歳で死去する。ここに、生前の遺徳をしのび、大正4年同士が建立したものである。碑文は吉波彦作先生による。
所在地:南砺市福光(西町)
所有・管理者:福光町
福光地区
この石垣は、平安末期から鎌倉期を経て室町中期のおよそ300年余り栄えた福光城郭の一部で、
その後、何回か積み替えた形跡がある。宝暦14年(1764年)の砺波郡史古城蹟調査書によると、「字は右京亮と称し、土居が東西27間程、南北10間程あった。今はわずかに高きこと9尺ばかりに、方2間余が平田中に残存す」とある。
現在の知源寺は善徳寺が天文年中(1554年)石黒氏の廃城となった跡へ山本の里から移ったが、
その後さらに、城端へ移った跡に善徳寺掛所として残り、現在知源寺として栄えている。
福光城は西の高土居(上江用水の近く)栄町、本町、中央通りを外濠とし、内部に御蔵(福光保育所)、若党屋敷として山谷勘右衛門屋敷、大坪屋敷の地名が残っており、その内部に栖霞園がある。
所在地:南砺市福光町(五宝町)
所有・管理者:知源寺