北山田地区
【下乗侍遺跡】
幕藩時代より伏木までの交通拠点として、年貢米の輸送、本願寺参詣、北海度移住等に利用された乗船場である。上流よりの通行者は、馬、駕籠等で来てもこの場所で下乗して船を待ったのである。
古老の話によると、明治22年(1888年)に対岸の荒島村(現井口村広安)から北海道へ移住されたとき、このお宮で水杯をして入江の六谷尻より旅立たれたという。
【頓成橋跡】
「二種一正因説」を批判された能登の頓成師の高弟で徳成道場(現真教寺)住持霊教師の説教を聞こうと、井波、蓑谷、細野、北野、井口の村々から集まってくる大勢の信者たちのため、荒島村有志(代表伊勢氏)が奉仕して毎冬ここに橋を架けた。
長さ五間、 (約10メートル)末口1尺2寸(約40センチメートル)余りの杉の大木を二つに割り二枚に並べて、両側に竹を立てて欄干代わりとした。また、株元に穴を開け番線で杭につなぎ、増水のときは末端を流すように造ってあった。
大勢の人が列をなしてこれを利用したが、北信橋の開通により昭和12年(1938年)その役目が終わった。
北山田地区
戦国争乱の頃(1500〜1571)宗守城は上杉勢に攻められて落城、城主藤井嘉兵
衛は戦死、その妻いちは臨月だったが、長男とともに脱出、家来の畑六郎左衛門の家(是安)で出産したが、敵の探索は厳しく再び宗守に戻った。ここでも敵兵
の追及にあい、もはやこれまでと生まれたばかりの赤子を地中に埋めて逃れようとしたが、それもかなわず村外れで自害したという。(姫塚)
やがて、赤子の埋められたあたりから、雨風の強い日など赤子の泣き声が聞かれたとか。村人はかわいそうになり、大小2個の石を並べて塚をつくり弔うことにしたと伝えられている。
長男は逃げ延び中野(砺波市)の開祖藤井小右衛門という。
所在地:南砺市宗守
所有・管理者:宗守地区
北山田地区
加賀藩政後期の頃、加賀国金石港を拠点として、海運業を起こした豪商銭屋五兵衛は、
加越能の産物を広く全国各地に紹介する一方、蝦夷などで産する安価な鰊を肥料として米の増産を奨励した。かたや養蚕を奨め、絹織物の生産に努めるなど、銭
屋の恩恵は深く加越能の農民に浸透していた。
ところが、銭屋が藩命により河北潟干拓事業実地中、潟に住む魚介類が次々に死に、潟に毒を流したと
疑われ銭屋一族は家財没収死罪という厳しい罰を受けた。嘆願によって放免となった長男喜太郎は、頼るところもなく福光・城端の問屋を訪れたが、藩の威令を
恐れて匿ってくれなかった。喜太郎は、城端善徳寺に参り、山田ン野を経て安居寺へ向かう途中、世の無情を悟り道中駕籠の中で自害を図り、この地で死去す
る。碑を建て銭屋喜太郎の冥福を祈っている。
所在地:南砺市宗守
所有・管理者:宗守地区