銭屋の碑
北山田地区
加賀藩政後期の頃、加賀国金石港を拠点として、海運業を起こした豪商銭屋五兵衛は、加越能の産物を広く全国
各地に紹介する一方、蝦夷などで産する安価な鰊を肥料として米の増産を奨励した。かたや養蚕を奨め、絹織物の生産に努めるなど、銭屋の恩恵は深く加越能の
農民に浸透していた。
ところが、銭屋が藩命により河北潟干拓事業実地中、潟に住む魚介類が次々に死に、潟に毒を流したと疑われ銭屋一族は家財没
収死罪という厳しい罰を受けた。嘆願によって放免となった長男喜太郎は、頼るところもなく福光・城端の問屋を訪れたが、藩の威令を恐れて匿ってくれなかっ
た。喜太郎は、城端善徳寺に参り、山田ン野を経て安居寺へ向かう途中、世の無情を悟り道中駕籠の中で自害を図り、この地で死去する。碑を建て銭屋喜太郎の
冥福を祈っている。
所在地:南砺市宗守
所有・管理者:宗守地区