広瀬地区
広瀬城の出城と呼ばれた時代もあったが、始まりは柿谷寺の寺地で、東方100メート
ルのところには角正寺があった。南の麓には宿坊が並び、西方は約300坪の墓地となっている。北方には高坂市右衛門の旧宅等の屋敷跡である。狼煙台があ
り、広瀬城−小城山砦−山本城−川合田城−高楯城と続き連絡しあっていあと伝えられる。
若宮社は、明治27年現在の地へ移されたが旧社屋は小山石を使ったもので、石の産地であったことがうかがわれる。
所在地:南砺市小山
所有・管理者:小山地区
広瀬地区
東、南、北の三方は崖になっており、西方には館とのろし用の薪小屋と、南朝方の古田五左衛門が建立した八幡宮があって、土塁で境をしていた。南方200メートルを離れて馬場と墓地があった。
八幡太郎源義家の頃から築城され、南北朝の時代には南朝方の拠点となり、その後、佐々成政の家臣,山本志摩守が住んでいたという。利波臣志留志の後裔で石黒宗五郎が統括していたなどの記録がる。
前田藩になって廃城となり、八幡宮は西の山中へ移され今日に至っている。
所在地:福光町山本
所有・管理者:山本地区
広瀬地区
本願寺5世綽如上人の後裔蓮真は、8世綽如上人の導きを得て砂子坂に道場を開いた。その子実円は延徳元年(1489年)山本の地に定住し、善徳寺の寺号を本願寺より受ける。
あとを継いだ円勝は、天正10年(1541年)福光に移り、その子祐勝によって、さらに城端の豪族荒木大膳の居城に移る。
善徳寺は、その後、砺波地方の真宗大谷派の触れ頭寺として活躍する。(やがて井波瑞泉寺も大谷派に転派したため、触れ頭は隔月ごとに交互に行うことになった)
現在、寺跡の後方の小高き丘の上に墓地がある。
所在地:福光町山本
所有・管理者:善徳寺