吉江地区
文明七年(一四七七)住職教珠法師が、真宗本願寺八世蓮如上人来錫の折り直弟子とな
り宗祖親鸞上人御自作の像や、蓮如上人の御真筆の六字の名号、上人着用の袈裟などを賜り、真宗に改宗して堂宇を現在の高宮地内に建立する。天保4年
(1833年)客殿、茶室及び庭園を造成。
この庭園は、小堀遠州流のながれをくんでいるといわれ、子牛石を礼拝するためのもで合掌石ともいわれている。
また、蓮如上人の腰掛石もあり、上人がお立ち寄りになったことをしのぶ上で貴重なものである。このほか夫婦石などもあり、庭の木々はこれらを見守ってくれている。
このほかに、南北朝時代の三尊来迎仏図、阿弥陀如来来迎図は白眉の作といわれ寺宝として保存されている。
所在地:南砺市高宮
所有・管理者:随順寺
北山田地区
【下乗侍遺跡】
幕藩時代より伏木までの交通拠点として、年貢米の輸送、本願寺参詣、北海度移住等に利用された乗船場である。上流よりの通行者は、馬、駕籠等で来てもこの場所で下乗して船を待ったのである。
古老の話によると、明治22年(1888年)に対岸の荒島村(現井口村広安)から北海道へ移住されたとき、このお宮で水杯をして入江の六谷尻より旅立たれたという。
【頓成橋跡】
「二種一正因説」を批判された能登の頓成師の高弟で徳成道場(現真教寺)住持霊教師の説教を聞こうと、井波、蓑谷、細野、北野、井口の村々から集まってくる大勢の信者たちのため、荒島村有志(代表伊勢氏)が奉仕して毎冬ここに橋を架けた。
長さ五間、 (約10メートル)末口1尺2寸(約40センチメートル)余りの杉の大木を二つに割り二枚に並べて、両側に竹を立てて欄干代わりとした。また、株元に穴を開け番線で杭につなぎ、増水のときは末端を流すように造ってあった。
大勢の人が列をなしてこれを利用したが、北信橋の開通により昭和12年(1938年)その役目が終わった。