北山田地区
加賀藩政後期の頃、加賀国金石港を拠点として、海運業を起こした豪商銭屋五兵衛は、
加越能の産物を広く全国各地に紹介する一方、蝦夷などで産する安価な鰊を肥料として米の増産を奨励した。かたや養蚕を奨め、絹織物の生産に努めるなど、銭
屋の恩恵は深く加越能の農民に浸透していた。
ところが、銭屋が藩命により河北潟干拓事業実地中、潟に住む魚介類が次々に死に、潟に毒を流したと
疑われ銭屋一族は家財没収死罪という厳しい罰を受けた。嘆願によって放免となった長男喜太郎は、頼るところもなく福光・城端の問屋を訪れたが、藩の威令を
恐れて匿ってくれなかった。喜太郎は、城端善徳寺に参り、山田ン野を経て安居寺へ向かう途中、世の無情を悟り道中駕籠の中で自害を図り、この地で死去す
る。碑を建て銭屋喜太郎の冥福を祈っている。
所在地:南砺市宗守
所有・管理者:宗守地区
北山田地区
33塚の1体で、鍛冶村開拓時に田圃から出土したものである。板石塔婆は板碑ともい
い板状の石を用いた卒塔婆の一種として発生した供養塔であり、鎌倉時代に急速に全国に普及した。板石の頭部を山形とし、その下に二条の切り込みを加工し、
2条線の下に梵字などが刻まれている。鍛冶塔は、高さ33センチメートル、幅21センチメートル、の扁平な板碑であるが、正面上部にはバン(金剛界大日如
来)を刻み、右側には「大永6年(1526年)7月」、左側には
「二四日」と読める。
バンの下にも何か刻んであるが判然としない。砺波地方唯一の銘文のある板碑といわれている。造立推定期は室町時代後期。なお、鍛冶神明社の御神体として同種の板碑が祀られている。
所在地:南砺市鍛冶
所有・管理者:鍛冶地区