由縁「旧来の御巡幸」
旧来の御巡幸
旧来の御巡幸は、輪棒を先頭にし、獅子舞一頭(今の川原町)稚児、武者20人、ことに騎乗武者は幌や馬印を着けものものしい時代祭りの様式をもっていた。神輿を担う仕丁は町内が毎年交替で奉仕したが、明治13年より厄年の男性が奉仕することに改められた。
庵屋台は文久2年に五組、鳥居組(本町)、神楽組(西町)、御幣組(東町)、錨組(川原町、味噌屋町)剣組(荒町、五宝町)の地域から各1台あて奉納された。
現在、は、東町、本町、西町のみが庵屋台を出している。今年は、五宝町の庵屋台が飾られる。
音曲を伝えた人は葛飾北斎の門人である春蝶川合宗平や園宮永坦が中興の祖であると伝え、ことに園先生は横笛の名手であった。