中谷豊充
偉人
〈人となり〉
中谷豊充は、明治18年(1885)中谷豊平の長男として上平村細島に生まれた。生まれつき頭がよく、しかも勉強好きな子で、両親始め一家の大きな期待を掛けられて成長した。
性格は大変優しかった。虫や動物などをじっと見つめていることもあった。やんちゃ盛りの少年になっても、あまり他の男の子のように悪戯することも少なかった。それでも、別に偉ぶっているわけでもなく、遊ぶときには夢中になって夜、暗くなって帰らないことも珍しくなかった
父豊平は漢方のお医者さんであった。その頃のことであるから専門的な医学を修めたわけではなく、五箇山に野生している木の皮や草の根や葉などを乾かして薬 を調合し、病人に与えていたのであろう。それで村人達が、絶え間なく家を訪れて教えを乞うた。その温かい人柄と幅広い知識は、土地の人達に大変尊敬され親 しまれていたのである。 このような雰囲気の中で育った豊充は、生まれつきの優しい性格と共に、「医者として是非世の中のために尽くそう」と、知らず知ら ずのうちに決意していったのであった。
〈松村謙三との出会い〉
豊 充は、細島の小学校から城端の高等小学校へと進んだ。そこを優秀な成績で終えると、明治32年県立高岡中学校へ入学した。その頃の高岡中学校というのは、 呉東にある富山中学校と共に県下でも最も優秀な人達の学ぶ学校であった。豊充は城端の町で下宿しながら五年間、高岡へ通ったのである。
その頃、福光町から松村謙三氏が、やはり高岡中学校へ通学していた。松村氏は豊充より2年先輩であったが、通学する方向も同じだったので、2人は仲良しになった。
豊充は何事も、このよき先輩に相談した。先輩もまた、この静かで勉強一途に励む後輩に目をかけた。授業が終わってから2人は、肩を並べて家路を辿った。時 には、高岡から福光まで20キロの間を歩き通して語り合ったこともあった。その頃の中学生にはそれだけ歩くことぐらい苦にならないことであったのだ。当時 は日清戦争に勝利を収め、日本の興隆期でもあった。やがて松村先輩は早稲田大学に進んだが、医師になって郷里五箇山に身を捧げようとしていた豊充は、その 2年後に金沢医学専門学校で医学を修めることになった。しかもこの時に育まれた友情と、人間に対する強い愛情や、社会に対する広い見方は、その後の豊充の 人となりに大きな影響を与えた。
〈五箇山で初めての開業医〉
大正5年かねてからの念願であった医師として、豊充は郷里五箇山へ帰ってきた。両親や家族はもとより、五箇山中の人々が喜んで迎えた。今まで無医村だったこの五箇山に、近代医学を身につけた若い医師がやってきて診察に当たるのである。しかも五箇山出身の人ではないか。
豊充は、五箇山の中心である下梨に民家を借りて改装し、「中谷医院」の表札を掲げた。今の国道156号線と304号線の分岐点のあたりである。その医院 は、玄関を入ると待合室、そして診察室兼薬局、それに居間という簡単なものであったが、豊充の五箇山住民に対する深い愛情と、人間の生命を預かる医師とし ての使命感にあふれる館となった。
それまでの村人達の医療は大変なものであった。お医者さんに懸かるときは、どうしても峠を越えて城端の町まで 出なければならず、まして、冬季は命懸けであった。それで当然手遅れとなり、助かる命を亡くした人も沢山いた。そこへ豊充が帰ってきたのである。五箇山の 人達の喜びと期待はどのようなものであったろう。
〈豊充の診察〉
豊充は期待に応えて、医師として精一杯に活動した。誰彼となく丁寧に診察を始めた。専門の内科はもちろんのこと、外科も診たし、神経科の病人さえ通った。 1人1人に的確に指示を与え、施薬した。病気が全快する人々が次々と現れると、益々評判がよくなり忙しくなった。どんな忙しいときでも常に微笑を忘れな かった。静かな声で話す一言、一言はその人の心を癒し、益々、村民の信望を高めていった。真っ白い診察着をまとい、白面で長身であった。人々は脈を診るた めに手を持つと、もうそれだけで病気が治ったような気になった。それくらい医師と村人との信頼関係が出来ていたのであろう。
下梨で開業した翌年、上平村の人達の懇望に答え、細島の自宅でも診療を始め、週1回はここへも通った。往診にも回ったそんな時には自転車に乗った。五箇山で初めての自転車である珍しい自転車に乗った先生が来られると、家の人達は玄関へ出迎えに出るほどだった。
豊充は、あまり金銭にはこだわらなかった。苦しい家計の程が分かるだけでなく、医は仁術であると言うことを身を以て知っていたからであろう。
〈雪の日の豊充〉
大正14年2月、下梨の中谷医院へ上平村の真木から、産気づいたようだから直ぐ来て欲しいという報せが届いた。外は猛烈な吹雪である。しかも積雪は2メー トルを超えていた。家人は、こんな悪天候の日にと言って往診に強く反対した。「よし、行く」と、出迎えの人の前できっぱりと答えて、直ぐ出発した。下梨か ら真木まで15キロメートル、しかも、途中は「雪崩の巣」である。人々は声を掛け合い、助け合いながら進んだ。本当に命懸けの往診であったが、夕方6時頃 に真木の家に着くことが出来た。豊充は疲れも見せずに診療を始め、無事に男の子が生まれた。「あの時の有難かったことは、今も忘れることが出来ない」と、 60年後の今でも、その人は感謝の気持ちを話してくれた。
〈学校医として30年〉
豊充は、大正5年に下梨小学校の「学校医」に委嘱された。東中江、皆葎、西赤尾の各小学校の「学校医」も兼ねることになり、平・上平村全部の青少年の保険・衛生に直接関係することになった。しかも、これは昭和20年に亡くなるまで実に30年も続くのである。
先ず、手がけたことは衛生観念の普及であった。衣服の洗濯、入浴、洗髪など身近な清潔を守る生活習慣を身につけるよう説いた。「衛生デーを設けて、常にこ れを奨励諭示し、受け持ち教諭はこれを調査し・・・・」と、下梨小学校の沿革史に載っている。 また、暖簾や掛け筵莚、裸足、手洗水、寝所の採光や換気、 万年床、炊事場、食器の洗浄、飲料水、食物、掃除、虫歯など、家庭の基本的な生活様式や日常生活の中味についても学校を通して指導したのである。
昭和15年夏、下梨を中心に腸チフスが発生し、運悪く蔓延した。この時は、消毒や予防に骨身惜しまず活動して、その被害を最小限に食い止めたのであった。
その後、社会の進歩もあり、生活も向上し、衛生思想も徹底してきた。体位も年々向上して現在に至っているが、その影に豊充らの血のにじむような努力があったのである。