藤井伝蔵
偉人
〈生い立ち〉
藤井伝蔵は,文久3年(1863)11月9日、平村高草嶺藤井庄平の2男として生まれた。それは明治維新に先立つこと五年、世の中の移り変わりのめまぐる しいときであった。藤井家は、村でも指折りの資産家で、広い山持ちとして知られ、また、塩硝も造っていた。養蚕や和紙作りにも精を出し、製糸業をも手がけ て居たので家計は豊かであった。農繁期や蚕の盛んな頃になると、沢山の人を雇い、最盛期には70人分の食事を準備したと伝えられている。
少年時代の伝蔵は、一度聴いたことは絶対に忘れないと云うほど、優れた記憶力を持っていた。その上体も強く、風邪一つ引かずに育ってきた。遊びも村の中だけでなく、下梨やその他の村々までもよく出かけた。
〈学問への道〉
時代は明治となった。
「士農工商」の制度がなくなった。廃藩置県、学制発布、徴兵令布告、地租改正、新しい法律が次々と出て実行に移された。世の中の仕組みがどんどん変わり、人々の考え方や暮らしもそれにつれて大きく変わり始めようとしていた。
伝蔵には旺盛な知識欲があった。そしてよく読書をした。中でも歴史書を好んで読み、「日本外史」「三国志」などに没頭していた。電灯のない暗いランプの下 で、一心不乱に本を読む姿がよく見られた。動物や植物についても興味を持ち、道ばたの雑草の名前もよく覚えて知っていたし、昆虫の生態などにも詳しかっ た。
小学校を終えると、城端の町や福光の町の有名な師匠を訪ねて教えを乞うたが、それでも旺盛な向学心を十分に満足させることはできなかった。
明 治15年(1882)、遂に意を決して「学問の府」と言われた金沢の町へ出て学問の道にいそしむことになった。先ず門を叩いたのは有名な藤田私塾であっ た。そこで、四書(大学・中庸・論語・孟子)、五経(易教・詩経・書経・春秋・礼記)を中心に漢学を修めた。ついで、その翌年には関口塾に入門して算数・ 代数・幾何などを一年間学び、帰郷したのである。
〈教育者を志して〉
2年間に亘る金沢の遊学を終えて帰ってきた伝蔵の目に映った「郷土五箇山」の現実は、あまりにも低いものであった。その日の暮らしに追われ生活にゆとりがなかった。自分の名前さえも正しく書けない人がまだまだ多かった。
伝蔵が金沢で見聞した日本の新しい文明開化は、五箇山にはまだ程遠いものであった。時代の進歩につれて、五箇山の産業や暮らし、ものの考え方を高めていくためには、若い年代の人々に是非学問が必要であると、痛切に感じないわけにはいかなかった。
これからの世の中に生きて行くには、先ず子供達に読み書き、そろばんを初め一通りの教養を、必ず身につけていなければならないと考えたのである。
明 治17年(1884)伝蔵は、富山県師範学校へ入学の手続きを取った。これは五箇山で始めてのことである。伝蔵21才の春であった。こうして教育者として の道を歩み始めた。丁度この年、父藤井庄平は下梨村外37ヶ村の戸長に選ばれて行政の立場から村の発展に尽くすことになっていた。
明治19年必要な教養と学問を修めた伝蔵は、師範学校を終えて故郷へ帰り、まず、下梨小学校で、かねてから願っていた教育者としての第一歩を踏み出したのであった。
〈教育の道に精進〉
それから10年間、伝蔵は五箇山の子供達の教育のために日夜を分かたず精進した。明治20年から下梨小学校長、ついで、明治23年からは東中江小学校長を兼ねた。25年には、再び下梨小学校長となった。
その頃の学校は、今のように整った校舎や設備があるわけでなく、粗末なものであった。伝蔵は未来に望みを掛けて、精一杯子供達の教育に当たった。
明治6年に学校の制度が発足したものの、国民の生活が苦しかったので、子供達の就学率は極めて低かった。学校へ出るものは、昔からの家柄の子供とか特別な子供だけであり、「百姓の子供に学問は入らない」というのがその頃の普通の考え方でした。
子 供達も家の農作業の手伝いをした。蚕の桑こき、蚕の飼育、それに糸引きをした。男の子は少し大きくなると大人と共に山仕事に出かけた。女の子は「子守」を してよく働いた。その頃の学校日誌に「地方の不景気に伴い、保護者の資力大いに困窮し、生計の度も低く、子女をして家の手伝いを・・」と書いてあるが、当 時の様子をよく表している。学校へ出るのはせいぜい2割程度であったが、それも殆ど男ばかりで、女の子は1人居るか居ないかという状態であった。
教 師としての伝蔵は、1軒1軒足を運び、学問の必要性を説明し、学校への出席を促して回った。家だけでなく山の仕事場へ直接訪ねて、親に説いたこともあっ た。雨に叩かれて山道が崩れ難儀したり、夜が更けて暗い夜道を帰ったこともあった。わらじがけで橋のない庄川を渡り、危険な目にあったことも何度かあっ た。それでも伝蔵くじけなかった教育への熱意は、揺るぎないものであった。
更に部落毎に「教育談話会」を開いて、村の人々に語りかけた。昼間の激しい山仕事に疲れ切った人達であったが、尊敬している伝蔵の熱意に動かされ次第にその真意を理解するようになり、沢山の人が出席するようになった。
そのころの日本は、日清戦争という国の興廃をかけた大事件もあって外国と肩を並べるまでに列強の仲間入りをしょうという時でもあり、教育の重要性も一段と 高まった。このこともあって伝蔵の努力は次第に報いられた。明治39年(1896)の就学率は八割近くにまで達したのである。
〈郷土のために〉
伝蔵はまた、村の政治や産業の発展に積極的に新しい意見を出した。例えば、村が真剣に取り組んでいた北海道移民について意見書を出したり、下梨から下流の 金屋(庄川町)まで舟を通すため、庄川運漕株式会社を設立することにも努力し、また、山の神峠近くの猫池に鯉の稚魚を放流して飼育することを手がけたこと もあった。よいと思ったことには積極的に意見を出したり、自分で試みたりして村の新しい産業を探し続けたのである。
〈新しい天地を求めて〉
明治29年(1896)春、一切の公職から身を引き師範学校を終えて村に帰って丁度10年経っていた。その間に就学率の上昇もめざましく、学校制度も着々と整備されてきた。今の下梨小学校、東中江小学校の基礎を固めたのである。
伝蔵は、これを機会に大阪へ出ることを決意した。一家をあげて大阪へ移住した伝蔵は米屋を始めた。持ち前の研究熱心と努力で信用を得て商売は繁盛した。
明治33年伝蔵は風邪がもとで36才を一期としてこの世を去ってしまった。遺族は、伝蔵が生前あれほど慕っていた五箇山へ帰り、高草嶺の墓地に手厚く葬った。
高い理想を掲げ村の教育の基礎を作り、村の教育に全てを打ち込んだ伝蔵の魂は、今も私達の学校を見守り続けて居るであろう